猫様のリクエスト作品です。リクエストありがとうございました!
サナが出社すると、すでにトウドウは自席で優雅にコーヒーを飲みながら――自撮りをしていた。以前彼が「朝日は写真写りが良くなる」などと抜かしていたのを思い出す。わざわざ朝早くに出社して自分をスマホで撮影することに夢中とは……真面目なのかそうではないのか。
たしか、昨日は用事があって、京都の実家へ行くと言っていたはずだ。トウドウとその家族の関係性を詳しくは知らないが、いつもであれば実家へ行った後は、しばらく機嫌の悪い日が続く。だが、今日はどういうわけか上機嫌で、鼻歌交じりに自撮りをしている。
トウドウは一瞬だけサナを見ると「おはようさん」と言った。サナは苦笑いを浮かべながら「おはようございます……相変わらずですね」と返す。その言葉を聞いて、トウドウは鼻で笑った。
「朝から俺に話しかけてもろて、よかったなぁ。”庶民”の君には過ぎた幸運やなぁ」
トウドウは目を細めて笑う。財閥の跡取り息子であるトウドウから見れば、サナのみならず、このフロアにいる全員が“庶民”で間違いはないのだが、だからといって腹が立たないわけではない。サナは下瞼をピクピクさせながら「本当ですー、わあー、嬉しいなぁー。ほんとー」とわざとらしい棒読みを並べながら、何とか笑顔を保つ。
「せや、これ見てみ? この角度やと俺、いっそう男前やろ?」
トウドウは朗らかな笑顔を浮かべながら、スマホを見せてくる。その画面には、確かにやや俯き顔の美しいトウドウの顔が映し出されていた。……サナは思わず「うわぁ」と一歩下がった。
「この写真、欲しなったら――」
「いらないです。トウドウさんの自撮りとか、マジで……」
サナの即答……それも拒絶を聞いたトウドウは、にやりと口角を上げた。
「ほぉ……ええ度胸やなぁ」
落ち着いた声色だが、目元がゆっくりと細められる。サナは「あ~、朝一で片付けなきゃいけないことがあったんだった~」と適当な言い訳を述べながら、さっとその場を離れた。自席でPCを起動すると、資料の作成をはじめる。背中に、トウドウの視線を痛いほど感じながら。
◆ ◆ ◆
完成した資料をメールで部内メンバーに共有したサナは、ぐっと伸びをした。モニタの隅に表示されている時間を見ると、あと少しで昼休みだった。午前中は、ほとんど資料作りで終わってしまった。
メールをチェックしていると、トウドウがふわりと近づいてきて、サナの肩にそっと手を置いた。
「資料……君なりに頑張ったんやなぁ」
耳元でそう囁いてから、トウドウはデスクにサナが作成した資料のコピーをそっと置く。彼は無言で、赤いペンを使って資料に線を引き、やたら綺麗な文字を書き込んでいく。資料はあっという間に真っ赤になった。
トウドウはにっこり笑うと「俺やったら、こんな資料、恥ずかしうてどこにも出されへんわ。……俺に感謝しいや」と言う。サナは無理くり笑顔を浮かべながら「ありがとうございますぅー」と礼を述べる。トウドウはニヤニヤ笑いながら、サナをスマホでパシャパシャと撮影する。
「……何しているんですか」
「おもろい顔やなぁと思て」
悪びれる様子もなく、トウドウは口角を上げたまま、スマホの写真を眺めている。彼は、サナのことを“庶民”どころか、”野生動物”か何かだとでも思っているのかもしれない。サナは溜め息を吐いて「消してくださいね、それ」と言いながら、トウドウが添削した資料を手に取った。
すっかり見慣れてしまったトウドウの美しい文字が並んでいる。腹が立つことに、書かれている内容自体も的を射ている。
トウドウは、添削内容を眺めているサナが映りこむ角度を狙って、自撮りをした。
「お。これ、ええわ。プロフィール画像、これにしよ」
「……は?」
モニタの社内チャットに表示されていたトウドウのプロフィール画像が読み込み中になったかと思うと、サナとのツーショットに切り替わった。
「はぁああ!? ちょっと! 変えてくださいよ! ただでさえ、トウドウさんと付き合ってるって皆に誤解されてるせいで、私、彼氏もできないんですからね?! そもそも――」
「そない言われても困るわ。君に彼氏ができひんのは――」
そう言ってトウドウはサナの足元に視線を移す。そして、少しずつ視線を上にずらしていく。膝、太もも、腰……ぴたりと彼女の胸元で視線を止めると「色気がないからやろ」とにっこり。サナは胸を隠すように腕を組むと「トウドウさん、あなたねぇ……! それ、セクハラです!!」と叫ぶ。
「声でか……まあ、ええやん。俺が、彼氏代わりになったる。こんなええ男、そうそうおらんのやし、君にとっても悪い話やないやろ?」
「彼氏代わり、ねぇ……あ、もしかしてトウドウさん。そんなこと言うなんて、実は私のことが好き、とか……」
サナがにやけ顔でからかうと、トウドウは余裕たっぷりの薄笑いを浮かべる。
「ウルシマさんのことが好きぃ……? ああ、なるほど。そういう風に思いたいんや? ……せやなぁ、確かに君のこと、好きや言うてもええかもな。”庶民”にしてはおもろいし、そばに置きたい思う――この気持ちは……」
「な……」
サナが赤面するのを見て、トウドウの瞳に愉悦の色が滲む。
「せや、この気持ちは……珍獣を飼いたい、みたいなもんやなぁ」
「珍獣!? あなたって人は~!!」
サナが怒りながら、トウドウのネクタイをぐいぐいと引っ張る。トウドウは制止するでもなく、くつくつと笑うだけだった。
◆ ◆ ◆
「ん? 今日はよう会うなぁ」
エレベーターに乗り込むと、何やらスマホを弄りながら壁に凭れているトウドウと出くわした。
「まぁ……同じ会社で働いているわけですしね……」
「せやけど……君みたいなんと、この俺が、同じ会社で働いているっていうんも、おかしな話やねぇ。奇跡や。君、こんなええ男と話せる幸運、噛みしめなあかんよ?」
「ホント、相変わらず何言って――」
いつもの嫌味交じりの軽口に苦言を呈そうとしたとき、エレベーターのかごが大きく揺れたかと思うと、照明が消えてしまった。
「な、何……?」
思わず尻もちをついたサナはすぐに立ち上がるが、暗くてよく見えない。自分がまっすぐ立てているのかさえわからないほどの暗闇だ。
「故障とちゃう?」
こんな状況であっても、トウドウは余裕を崩さない。彼は冷静に非常ボタンを押した。少しして、『どうされましたか』と年配の男性の声が聞こえた。メンテナンス会社のコールセンターにつながったのか、警備とつながったのかはわからないが、ひとまず安心できそうだ。
「エレベーターが停止して、電気も消えてしまいました。非常ボタン以外、反応しません」
トウドウは年配の男性と、状況や復旧見込みについていくつかやり取りをしたあと、会話を終えた。
「……トウドウさんの敬語、初めて聞いたかもしれません」
「なんや、元気あらへんやん。……怖いんか? 安心せぇ、すぐ人を寄こしてくれるって言うとったわ」
「はい……」
トウドウの手が、サナの頭にそっと触れた。
「君がしおらしいと、変な感じやわ。ほら……怖いんなら、おいで」
トウドウに抱き寄せられた。サナは抵抗することも、抗議の言葉を述べることもなく、暗闇の中、ただトウドウの腕の中に収まっていた。互いの表情は見えない。ただ、彼のぬくもりと……早すぎる鼓動の音を聞きながら、そっと抱き返した。
◆ ◆ ◆
「いやぁ、今日は大変やったなぁ」
エレベーターから救出されたあと、トウドウが「疲れたやろうから」と車で送ってくれることになった。彼はハンドルを指で軽く叩きながら、当たり前といった口調で「せや、俺ん家、寄ってくやろ?」と言った。
「……トウドウさんの家? なんで?」
「なんでってそら、そんなん決まってるやん。わざわざ言わなあかんの? ちゅうか、君。そろそろ素直になったらええのに。俺に惚れてるやろ?」
「……」
――認めたくない。
この男は、冗談めかして「彼氏代わりになったる」としょっちゅう言うが、「彼氏になったる」と言ったことは一度もない。トウドウほどの男が、庶民に本気になるとは思えない。それどころか、すでに婚約者がいたっておかしくはない。
それでも、たった一夜でも、この男に抱いてもらえるなら。
「……そうですね、トウドウさんの家、行きたいです」
窓の外を見たまま、サナは答えた。運転席のほうは見ない。見れなかった。
◆ ◆ ◆
トウドウのマンションについてから、サナは落ち着かなかった。「今、ワインでも持ってきたる。好きにしててええよ」と言われても、ソファに座っていればいいのか、部屋の隅に立っていればいいのか。しばらく部屋の中をうろついた後、サナはソファに腰を下ろした。
二つのグラスとワインボトルを持ったトウドウが戻ってきた。お酒が入っていた方が、緊張が和らぐかもしれない。だが……酒の力を借りるのも、記憶が曖昧になるのも嫌だった。
「この間、京都へ行ったやろ。実家でもろうたんやわぁ。そうそう、ようやくうちの親もつまらん見合いを諦めてくれて……まあ、ええわ。ほな、飲も――」
「トウドウさん!」
サナはトウドウをソファに押し倒すと、唇を重ねた。彼はサナの背中を撫でながら舌を絡ませる。唇が離れると、トウドウはサナの首筋を軽く吸う。
「思たより、積極的なんやなぁ」
トウドウは愉快そうに笑いながら、サナの胸を服の上から柔らかく揉む。
「ん……」
サナが甘い声を漏らすと、トウドウは再び唇を重ねる。舌で互いの口内を探るようにしながら、ゆっくりと蕩け合う。重ねられた唇の端が、わずかに上がる。トウドウの、いつもの人を食ったような笑み。だが、その笑みに悦びと飢えが孕んでいる。
トウドウの手がサナの腰を撫で、太ももの付け根へ……。
「……まだ間に合うで。やめてほしいなら、今や」
「嫌じゃありません……」
「そっか」
トウドウはサナのスカートの裾を捲り上げる。そして太ももの柔らかな輪郭をなぞる。
「ああは言うたけど、途中でやめとうなったら言えや」
彼は珍しく笑わない。――眼差しと触れ方はどこまでも優しい。
……トウドウさんってこんな表情をするんだ。何人の女性が、彼のこの顔を見たんだろう。……これから見るんだろう。
「言いません」
「なぁ、気ぃ付いてへんのか? さっきから君、ずっと泣きそうな顔してんで」
サナは首を横に振って、「気のせいですよ」と笑い、彼のものを取り出し、自分で下着をずらして入り口にあてがう。
「そないな急がんでも――」
「私はもう我慢できないんです……ぁあッ」
サナはゆっくりと腰を下ろす。若干潤いが不足しているそこが、傷口のようにぴりっと痛む。
「……今の、痛かったんちゃうん? 無理しなや」
「平気です……平気ですから……トウドウさんの気持ちが変わっちゃう前に……したいんです」
サナはゆっくりと腰を動かす。
「変わらへんよ」
トウドウはサナの腰を掴むと、彼女の動きに合わせて下からゆっくりと突き上げる。少しずつ痛みは薄れていき、快感のみが残った。動きは最小限で緩慢としたものだったが、だからこそ、愛情のようなものを感じた。……どうせ錯覚なのに。
サナの身体がびくっと跳ね、奥でトウドウのものを締め付けた瞬間、彼も抑えきれなくなり、「……あっ、やば……」と言葉を漏らした。サナの腰を自分のほうへ引き寄せるように密着させ、最奥に最後の一撃をねじ込む。どろりとした熱いものがサナの中に注がれる。トウドウは肩で息をしながら、目を潤ませた。
「どないしよう……えらい幸せや。……もういっぺん、ええ?」
◆ ◆ ◆
翌日、トウドウの運転する車の助手席で、サナは気まずそうに窓の外ばかりを見ていた。同僚と一線を超えてしまった。それも、恋人になれるはずもないような男と。
「なんや、サナちゃん。具合でも悪いんか? それとも……怒ってるんか? 夕べ、そないしつこうしたつもりはあらへんのやけど」
「……」
「機嫌直してや。そうや、『好き』の言い方で、性格がわかる心理テストがあるんやで。昨日、SNSで見たわ。試しに言うてみて」
今日のトウドウは、いつもよりおしゃべりだ。彼も気まずいのかもしれない。
「好き……こんな感じですかね」
「おおきに」
「で? どんなふうに性格がわかるんですか?」
「……ん? ……ああ、あら嘘やわぁ。俺が言うてほしかっただけ」
「……は?」
思わずトウドウの横顔を見てしまう。赤信号で車が停止すると、トウドウはサナを見て、にやりと笑った。
「だって、夕べはあないに楽しかったのに、サナちゃん、朝から冷たいんやもん。……なぁ、もういっぺん言うてくれる?」
