Chapter 1 獣と吸血鬼狩り
1
ヴァンパイアとなったサナは、レオナードの屋敷で住み込みのメイドとして働いていた。もともとメイドの仕事をしていたこともあり、困ることはほとんどなかった。気に食わないことがあるとすれば、執事のリガルドくらいだろうか。彼も、サナ同様、レオナードによってヴァンパイアとなった元人間である。その事前情報をレオナードにもらったときは、「仲良くできそうだ」などと呑気なことを考えていた。
まさか毎日何かしらの仕事をするたびに、いちいち大量のダメ出しを食らうとは思ってもいなかった。昨日は窓拭き、一昨日は食器の洗い方。その前は……挙げればきりがない。
そして、今日は廊下の掃除であれこれ言われている。
「何ですか、その掃除の仕方は。あなた、メイドの経験があるのではなかったのですか。わたくしだけならともかく、レオナード様にまで嘘を吐いて、恩知らずもいいところですね」
2
何でも完璧にこなす執事のリガルドにしてみれば、サナの仕事は拙く見えるのかもしれない。だからといって、ネチネチと口うるさく言われ、嘘つき呼ばわりされる筋合いはない。
「うるさいわね、嘘なんか吐かないわよ!」
サナがそう言うと、リガルドはフンと鼻で笑った。「これだから女は困りますね。すぐ感情的になって、とりあえず反論すればいいと思っているのでしょうか。うるさい? 嘘なんか吐かない? だったら、それを早く証明してくださいよ。ほら」
サナはもう何も言い返さず、掃除をすることにした。
3
リガルドが口だけの人間だったら、どんなに良かっただろう。彼は、執事として完璧なのだ。……サナに対して当たりが強いことを除けば。
「ぐぬぬ……」
返す言葉もない。歯を食いしばって掃除に集中するしかない。そんなサナの顔を見て、リガルドがぽかんと口を開けた。
「今度は何よ……」
「いえ……失礼。女性もそんな顔をすることがあるのだなと思いまして。すごい顔でしたよ。とてもこの世のものとは思えなかった」
「あなたね! ……もういいわ、私は掃除で忙しいの」
サナは掃除を続けた。
4
サナが黙って掃除に集中している間も、リガルドの小言は続いた。そこへレオナードがやってきた。
「レオナード様、いかがされましたか」
リガルドは微笑みを浮かべながら、主人に尋ねる。
(こいつ……相変わらず私とは随分態度が違うじゃない……)
レオナードはニコリともせず「サナに頼みたいことがある」と言った。
「わ、私ですか? はい、何でもおっしゃってください」
助けてもらった恩からか、自分の身体の中を流れるヴァンパイアの血のせいかわからないが、レオナードの望みは何でも叶えてあげたくなる。今すぐ屋根から飛び降りろと言われても、喜んでやるだろう。
「買い物を頼みたい」
サナは慌ててメモを取り出し、「必要なものはなんでしょう?」と聞いた。レオナードは何も答えずに、近くに来いというように、手招きした。サナは不思議に思いながらも、レオナードに近づく。するとぐっと引き寄せられ、耳元で「リガルドから逃がしてやる。適当に本を買ってきてくれるか。新しく出たものなら、なんでもいい」と囁いた。吐息がくすぐったい。唇が何度か耳に触れた気がする。サナはバラのように真っ赤になっていた。リガルドに連日口うるさく言われても、この屋敷を出ていこうなどと考えずに済んでいる理由は、レオナードだ。そもそも彼のためなら何でもできるし、そんなレオナードは毎回何かしらの方法で助けてくれる。何と優しい主だろう。
「か、かしこまりました……行ってまいります」
「ああ、頼む。すまないな、リガルド。サナを借りる。急ぎの用なんだ」
リガルドは完璧な笑顔を浮かべ「何をおっしゃいます。わたくしたちはレオナード様のものではないですか。そもそも、以前は掃除を初め、この屋敷の仕事のすべてをわたくしがやっていたのですから、役立たずが居なくなる分、かえって助かるというものです。それよりも、そこのアホ女が買い物一つまともにできないのではないかと言う点が心配で心配で」と言った。
頭でも痛むのか、レオナードは眉間を抑えながら「リガルド……仲間を悪く言うのはよせ」と彼を諌めた。リガルドは頭を下げ「申し訳ありません」と言ったが、本心かどうかは不明だ。……本心だとしても、その謝罪はあくまでレオナードに向けられたもので、サナに謝るつもりは毛頭ないに決まっている。
(ほんっっとにムカつく……)
サナはリガルドを睨みつけてやったが、リガルドが例の完璧な笑顔を崩すことはなかった。
◆ ◆ ◆
(たしか本屋は……)
屋敷を出て、街に来たサナは本屋を探した。レオナードには感謝してもしきれない。あのまま屋敷で掃除を続けていたら、サナは過度なストレスで死んでいただろう。
(でも、リガルドに仕事を教えてもらった方がいいわね。ムカつくけど)
そんなことを考えながら歩いていると、無事書店にたどり着けた。後は、本を適当に買うだけだ。
◆ ◆ ◆
(は、話が長かった……)
新刊であれば何でも良いと言われていたから、すぐに買う本は決まったものの、書店の店主に捕まってしまい、長話に付き合うことになってしまった。ホロウェイ家のメイドは無礼で愛想のない女だったなどと庶民に噂されたら、困るのは自分ではなく、レオナードだ。メイドの一人もまともに躾けられないのかと、他の貴族連中に馬鹿にされるだろう。そんなことは耐えられない。
(すっかり暗くなっちゃった)
店の外に出ると、すでにあたりは真っ暗だった。暑さ寒さに鈍くなったサナだが、周囲のたっぷり着込んだ人間が、身を縮めながら早足に歩いている姿を見れば、今はかなり寒いのだとわかった。日が沈んでから随分立つようだ。レオナードも心配しているに違いない。サナは普段使わない路地を通って、少しでも早く屋敷に帰ることにした。
路地はもっと暗く、人の気配がしない。サナは本を抱きしめながら、早歩きで路地を進む。しばらく路地を進むと、少し先から人の怒声が聞こえてきた。酔っ払いが暴れているのか、地元のごろつきがたむろでもしているのか。どちらにせよ、ヴァンパイアのサナが人間に負けることはありえないので、そのまま突っ切ることにした。
「!? こっちは駄目! 早く逃げて!」
剣を持った若い男がサナに向かってそう叫んだ。それは異様な光景だった。おそらくサナの同胞と思しき三人の男たちが、一人の若い男を囲んでいた。しかし、ヴァンパイアの様子がおかしい。口から涎を垂らしながら、興奮しているのか肩で息をしている、サナの知っているヴァンパイアとはかけ離れた姿だ。サナが一歩後退りすると、足が何かに触れた。見ると、ヴァンパイアの頭だった。
(!? この男、かなり若そうだけど吸血鬼狩りか……この場合、ヴァンパイアに加勢した方がいいのかしら。でも、何だか様子がおかしいのよね)
その時、ヴァンパイアの一人がサナに飛びかかってきた。まさか同胞が突然襲ってくるなんて夢にも思っていなかったサナは、ぎゅっと目を瞑ることしかできなかった。鋭い爪で引き裂かれる痛みを覚悟したが、どこも痛まない。ゆっくりと目を開くと、先程の若い男が庇ってくれたのだろうとわかった。若い男の、成人男性にしては華奢な肩。その左肩が赤く染まっている。
「ねえ、あんた、聞こえなかったわけ!? さっさと逃げてくれる?」
ヴァンパイアと戦いながら、時折サナの方を若い男は見る。三人を相手にしながら、何とか逃がそうとしてくれている。サナに危害を加えるつもりはないようで、それどころか身を挺してまで庇ってくれた。そんな男を見捨てて逃げるのか。ヴァンパイアのくせに吸血鬼狩りに協力したと知ったら、レオナードはどう思うだろう。
「あのさ、本当にさっさと逃げてくれる?!」
あれこれ考えては迷い、動き出さずにいるサナに苛ついたらしい若い男が叫ぶ。迷っている暇はあまりないだろう。何が最善かはわからない。ただ、ひとつだけわかることがある。
(レオナード様は、私がこの男を見捨てたと知れば、軽蔑するに決まっている……)
サナは買ったばかりの本で一番近くにいたヴァンパイアの頭を思いっきり殴った。鈍い音がして、殴られたヴァンパイアは頭を抑えて叫びながらのたうち回る。若い男はその様子を見て、驚いた様子だ。
「加勢するわ」
「あんた……まあ、話は後だね」
◆ ◆ ◆
サナと若い男は路地に座り込んでいた。何とかあの三人のヴァンパイアを屠ることができた。しかし、油断した時に脇腹を深く抉られてしまった。サナは痛む脇腹を止血のために強く圧迫すると、痛みから「ああ、クソ!」と叫んだ。内臓が路地にこぼれてしまわなかっただけでもマシだと思うべきだろうか。若い男はと言うと、サナを庇ったときの肩の傷以外は、どこも怪我をしていない様子だ。
(この男……相当な手練れね。私を殺そうだなんて思わないでくれたら、嬉しいけど……)
サナの側に落ちているのは、本だったものだ。ヴァンパイアの攻撃を受け止めたり、奴らのことを力いっぱい殴ったりしたせいで、真っ赤な血に染まったただの紙の集まりになってしまっていた。
「あんな馬鹿力を出せる人間の女性はいない……あんたも吸血鬼なんだよね。悪いけど、死んでもらうよ」
若い男がサナの首筋に剣をあてた。このまま男が力いっぱい引けば、サナの頭部は胴体から完全に切り離される。
5
この男のために、戦った。その結果、これだけの大怪我を負ったというのに、首筋に剣をあてられる羽目になるとは。文句の一つくらい言わせてもらおう。
「恩知らずなのね」
「……あんたがどう思っているか知らないけど、ボク一人ならもっと早く終わってた」
それは事実だろう。この男は相当な手練れで、サナがかえってお荷物になっていることは、戦闘中に気がついていた。
「……ええ、私はヴァンパイアよ」
サナがそう答えると、男は剣をゆっくりと下ろした。
6
どうして男がこんな真似をするのかわからなかった。本当に殺すつもりだったのなら、先程の戦闘中にでもできただろう。サナとこの男にはかなりの実力差があるのだから、首なんて一瞬で刎ねられる。
「殺すつもりなんてないでしょう」
男は剣をゆっくりと下ろした。
7
「ボクはアリステア。あんた、その怪我は……大丈夫なの?」
アリステアは心配そうだ。吸血鬼狩りがヴァンパイアの心配をしているとは。サナはおかしくて、思わず笑ってしまった。そして、「あなたが一番わかっているでしょう」と皮肉っぽく言った。ヴァンパイアは、この程度のことでは死なない。人間と同様に、痛みはあるが。
「血、飲みたい?」
「え?」
想像すらしていなかった提案にサナは目を見開いた。
「だ、だから、血をやっても良いってこと。もちろんボク一人で十分だったし、あんたはただの足手まといだったけど……でも、助けようとしてくれたし、あんたの怪我は酷いみたいだし……」
「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」
「一応聞くけど、あんたに吸血されたら、ボクも吸血鬼になる、なんてことはないよね?」
「ええ、ならないわ。私が血を吸いすぎて、あなたが死ぬなんてこともないから安心して」
アリステアはシャツのボタンをいくつか外すと、成人男性にしてはやや細い首をサナに差し出した。サナはアリステアを抱きしめ、彼の首元に唇をあてる。アリステアは驚いたかのようにビクンと身体を震わせた。人間は、たとえ吸血鬼狩りであっても、ヴァンパイアのことをよく知らないはずだ。人間時代のサナだってそうだった。人間にとって、ヴァンパイアとはただただ恐ろしい存在なのだ。それなのに、彼は自ら血を差し出してくれた。あまり痛がらせたくない。サナは慎重に首筋に噛みついた。
「……ん」
痛みをゼロにすることはできない。アリステアが小さく唸る。口内に温かな血が広がり、サナの渇きが癒されていく。しかし、この勇気ある人間の好意に甘えすぎるのもよくない。サナは唇を首筋から離すと、名残惜しそうに彼女自身がつけた傷口を数度舐めてから、「ありがとう。美味しかったわ」と囁いた。
「も、もう良いわけ? もっと飲んだほうがいいんじゃないの?」
「大丈夫よ。それに、あなただって怪我をしてる。血が減りすぎると困るでしょう」
「ボクは別に大丈夫」
サナはゆっくりとアリステアから身体を離した。これ以上、もっと飲めと言われると、我慢できなくなってしまう。顔を上げると、アリステアの顔は真っ赤だった。サナが血を吸いすぎたせいで、体調が悪くなったのかもしれない。
「ご、ごめんなさい……吸いすぎてしまったかも。ふらつきはない? 大丈夫?」
「え? ああ、ボクは大丈夫。……ところでさ、あんたは良い吸血鬼だよね。ボクが相談したいことがあるって言ったら、どうする?」
サナは少し考えてから「わからないわ。もしまた会えたら、そのときに相談してみたら?」と言った。実際、わからなかった。レオナードは、恩人とは言え吸血鬼狩りに手を貸して、同胞を殺めたサナに何らかの処罰を与えるかもしれない。恩人を見捨てなかったことは評価してくれるだろうが、ヴァンパイアにはヴァンパイアのルールがある。それに、この怪我だ。完治するまでは、力になれない可能性が高い。
「わかった。ありがとう。ねえ、あんたこそ大丈夫? 送っていこうか?」
「ふふ、気持ちだけいただくわ。ヴァンパイアの家に吸血鬼狩りを連れて行くわけにはいかないから」
◆ ◆ ◆
何とか屋敷に戻ると、リガルドが慣れた手つきでサナの怪我の手当をしてくれた。
「まったく。あなたという人は、買い物一つまともにできないんですね」
「……返す言葉もないわ」
治療の様子を、レオナードとたまたま屋敷を訪れていたエルバート・パウエルが見守る。レオナードは「何があった?」とサナに尋ねた。
サナは一瞬迷ったが、主に嘘はつけない。何もかも話してしまうことにした。
「本を買った帰り、同胞と吸血鬼狩りに遭遇しました。その……何と言うか、同胞の様子がとてもおかしくて、この怪我はすべてヴァンパイアにつけられたものです。吸血鬼狩りは……私を助けてくれました」
すべて話すつもりだったが、やはり血をいただいた件は黙っておくことにした。流石に呆れられてしまいそうだ。
エルバートは「大変だったね」と言ってくれた。
「お前を襲ったのは、獣と呼ばれているヴァンパイアたちだ。運が良かったな。あいつらは意思や理性を持たず、誰でも襲うんだ。……しばらく休暇をやる。怪我を治せ」
それだけ言うと、サナの返事を待たずにレオナードは部屋を出ていってしまった。
「レオは、君のことをすごく心配していたよ。本当に無事で良かった。ゆっくり休んでね」
そういうと、エルバートも帰っていった。主人だけではなく、客人にもこの醜態を晒してしまった。エルバートはレオナードととても仲が良いから、妙な噂を流したりはしないだろう。しかし、今回の失態について、レオナードはどう思っただろう……。
「さ、終わりましたよ」
脇腹の傷には綺麗に包帯が巻かれ、痛みも随分ましになっている。
「リガルド、ありがとう」
「……あなたにお礼を言われるのは妙な感じですね」
「どうして?」
「わたくしは普段、あなたの仕事にダメ出しばかりしているんですよ。それに……わたくしがあそこまで口うるさくしていなければ、レオナード様があなたに買い出しを頼むこともなく、こんな風に怪我をすることもなかったでしょう……」
意外にも、リガルドはサナの怪我について責任を感じているらしかった。
「別に……私がしっかりしていれば、こんな怪我をすることもなかった。それだけよ。しばらくは、あなた一人で仕事をしなくちゃいけないから、大変だろうと思うけど。でも、安心して。できることはするから」
そう言って微笑むと、リガルドも微笑み返してくれた。
「ですから、言っているでしょう。もともとはわたくしが一人ですべてやっていたことです。今日も言いましたが、役立たずが居ない分、仕事は楽になります」
「……。本当にムカつく男ね」
◆ ◆ ◆
翌日。まだ怪我は完全に治った訳では無いが、かなり良くなっていた。レオナードからは休暇を命じられているが、どうしよう。
※現在はここまでです。