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プロローグ

1

 サナがこの屋敷のメイドとして働き始めてから二ヶ月が経った。仕事にも慣れてきたし、旦那様も奥様もいい人で非常に働きやすい。ただ、一点だけ困っていることがあった。

「サナ、この後、一緒にお茶でも飲まないか。僕の部屋で」

 そう言って微笑むのはご令息のヘーズだ。貴族の若い男が、使用人を言葉巧みに誘うとする理由はひとつしかない。後腐れのない、お遊びの相手を求めているのだ。サナの母は、その誘いに乗ってしまった女性の一人だった。貴族の子どもを身籠もったことで、僅かな口止め料を渡されて屋敷を追い出された。口止め料で満足しなければ、秘密裏に母子ともども殺されていただろう。当然、当時の母にもそれはわかっていたはずだ。だから、彼女はとにかく屋敷を出たのだと思う。

 だが、訳ありの母子を受け入れてくれる男は当然おらず、まだ幼いサナを抱えたまま、母は昼夜問わず働かなくてはいけなかった。5年もそんな生活を送った結果、母はある朝、眠ったまま目覚めなくなった。彼女の顔には、死に化粧を施しても消せない、濃いくまがあった。

 その後は、母と絶縁していた祖母に引き取られ、サナは大人になっていった。祖母は普段、母のことを話そうとはしなかったが、たまの祭日に酒を飲むと「あの子は本当に馬鹿だった」と呟いた。そして、祖母も昨年亡くなり、どうして母と絶縁したのかとか、なぜ家に祖父はいないのかとかいった、ちょっとした疑問は永遠に謎のままになってしまった。

「申し訳ありませんが、それは……」

「そ、そうか……まあ、気が変わったら声をかけてくれ」

 サナは深々と頭を下げた。ヘーズの興味が誰か別の人に向いてくれたら。そう思いながら。

 ◆ ◆ ◆

 今日は月に一度の休みだ。今日の外出は、必要なものを買い揃えることが目的だ。もっと休みがあれば、遊ぶこともできるのだろうが。

(買い物しかしていないのに、もうこんな時間か……)

 あたりはすでに真っ暗だ。門限まではまだ余裕があるが、女の一人歩きは何かと危険だ。歩くスピードを少しだけ早める。

「サナ、今、帰りなのか? すごい荷物だ。運ぶのを手伝おうか?」

 暗闇からヘーズが現れた。サナは驚いて、小さな悲鳴を上げた。

「なんだよ。ひどいな。今日は休みだったのか? なあ、どうして僕を誘わない?」

「失礼しました。驚いてしまったものですから。今日は……ただの買い物です。それにヘーズ様を付き合わせるわけにはいきません」

「へえ、じゃあ、明日は? 明日、休みにしてやる。それなら僕の部屋に来れるか?」

「それは……」

 ヘーズが一歩、サナに近づく。いつもの誘いとは何かが違う。嫌な予感がして、手が震える。持っていた買い物袋が地面に落ち、中に入っていたものが地面を転がる。

「はっきりしろよ。なんでそんなに怖がるんだよ」

「お許しを……」 2へ

「しつこいな! ずっと断っているじゃない!」 3へ

2

 サナは「お許しを……」と小さな声で言った。唇は僅かに震えていた。

「だからなんで怖がるんだよ!」

 そう叫ぶと、ヘーズはどこからかナイフを取り出した。逃げようとするサナをヘーズは素早く捕まえると、力いっぱい……。

「や、やめ――」

 熱い。腹部に焼けた鉄を当てられたかのようだ。ぼとぼとと、赤黒い血が石畳に滴り落ちる。自身の血が、敷き詰められたタイルの輪郭をなぞりながら流れていくのを、サナは他人事のように見ていた。

「お前が悪いんだからな!」

 ヘーズはそう言って、走り去っていてしまった。

次へ 4へ

3

 頭にきた。使用人だと思って、馬鹿にしやがって。

「しつこいな! ずっと断っているじゃない!」

 サナが大きな声を出すと、ヘーズは一瞬怯んだ。だが、あくまで一瞬だ。すぐに顔を真っ赤にさせて、怒り出した。

「ビッチが!」

 ヘーズはそう叫ぶと、サナの懐に飛び込んだ。突然のことで、何が起きたのかわからなかった。ヘーズが身体を離すと、彼の手にはいつの間にか血に濡れたナイフが……。

「な……何を……」

 腹部が熱い。刺されたのだと理解したとき、刺した張本人は逃げ出した後だった。

次へ 4へ

4

 サナの身体がゆっくりと地面に倒れた。石畳はひんやりとしていて、気持ちがいい。

(世界って……こんな静かだっけ)

 サナの身体から、温かな血が流れていく。少し寒くなってきた。遠くで騒ぐ酔っぱらいの声、女たちの笑い声……今までうるさいと思っていたものすべてが、なんだか恋しくてたまらない。どうして今夜に限ってこんなに静かなのだろう。まるで、神様に「お前は一人きりで死ぬんだよ」と言われているようだ。

 瞼もだんだん重くなってきた。

「血の香りに釣られて来てみたが……」

 男の声だ。頭の上から聞こえてくる。サナは岩のように重くなった頭を持ち上げ、声のする方を見た。青白い金髪男が、直ぐ側に立っていて、自分を見下ろしている。足音は一切聞こえなかった。どうやって自分に近づいたのか、さっぱりわからない。もしかすると、死神かもしれない。

「助けて」 5へ

「死にたくない」 6へ

5

 死神だろうと構わない。このまま死ぬのは嫌だ。サナは彼に「助けて」と言った。男に聞こえていたかは定かではない。

 男は地面に膝をつくと、サナを横抱きにした。

「よかろう。だが、私に命を救われたこと、けして忘れるな」

次へ 7へ

6

 死神だろうと構わない。このまま死んでしまうのは嫌だ。

「死にたくない」

 サナがそう言うと、男は地面に膝をつき、サナを横抱きにした。

「死にたくない、か。これも何かの縁だ」

次へ 7へ

7

 次の瞬間、サナの首筋に鋭い痛みが走った。男が、サナの首筋に噛みついたらしい。

「痛ッ……」

 男はゆっくりとサナの首から顔をあげると、尖った牙で自らの舌を軽く噛んだ。男の舌を赤い血が伝う。

「私の血を飲め」

 そう言って、男はサナにくちづけた。サナはわけが分からなかったが、拒む元気もとうに残っていなかった。冷たい舌が、サナの口内に挿し入れられた。血独特の嫌な鉄の味――ではなく、甘く濃厚で、どこか官能的な味が、口いっぱいに広がった。

(美味しい……もっと、ほしい……)

 いつの間にか、身体に力が入るようになっている。男の血を求めて、彼の背中にしがみつく。男の舌を軽く噛むと、再びあの味が……。

「調子に乗るな」

 サナの身体が石畳に打ち付けられた。男に落とされたのだ。

「痛……落とすなんて酷い……」

 石の上に落とされたのだから、言うまでもなく背中が痛い。けれど、先程のような身体の重さや、寒さ、得体のしれない孤独感がいつの間にか消えている。

「私の名前はレオナード・ホロウェイ。これからは、私のために生きろ」

 これが、サナとレオナードの出会いだった。最初は彼の言葉の意味がさっぱりわからなかったサナだったが、その日のうちにすべてを理解した。

 腹部を刺されたサナは、死の淵から蘇った。人ならざるもの、ヴァンパイアとして。

※現在はここまでです。