築数十年のおんぼろアパート。家賃は安い。ものすごく。田舎からでてきたばかりで、まだ給料の安いカンザキにしてみれば、ありがたいことだった。
アパートの壁は薄く、隣の部屋どころか、外の音もよく聞こえる。それも……カンザキにとって、ありがたいことだった。部屋の外から階段をゆっくりと上る、ハイヒールの音がして、カンザキはそれまで忙しなくタイピングしていた手を止めた。
(き、きた……帰ってきた……)
カンザキは慌ててデスクチェアから立ち上がると、洗面所の鏡で前髪を素早く整える。そして、財布を持つと、偶然を装って部屋の外に出る。
「あ……あ、ウルシマさん。今、ご帰宅ですか? おかえりなさい……」
彼女……サナは、一瞬、驚いたようだったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて、軽く頭を下げてくれた。
「ああ、カンザキさん。こんばんは。私は仕事帰りで……」
サナはカンザキの手元をちらりと見てから、「カンザキさんは、これからお買い物ですか?」と言った。
「ええ、そんなところです……はは、は……」
今日もお綺麗ですね。あの、彼氏とかいたりしますか――思わず、そう言ってしまいたくなる。だが、焦ってはいけない。一度でも変質者認定されれば、彼女は目すら合わせてくれなくなるだろう。それどころか、どこか自分の知らないところへ引っ越してしまうかもしれない。それだけは避けたい。時間をかけて、自分の気持ちを伝えていこう。忍耐強く……彼女が理解してくれるまで。自分を受け入れて、部屋に招き入れ、一糸纏わぬ姿でカンザキに「来て……」と囁いてくれるまで……。
「そうですか、お気をつけて。失礼します……」
サナは鍵を開けて、自分の部屋へ入っていった。
(ウルシマさん……好きです。ああ、ここにまだ彼女の香りが残っているような気がする……。好きです、大好きなんです……)
カンザキは名残惜しそうに彼女の部屋のドアをしばらく見つめた後、買い物へ行くために、近くのスーパーへと向かった。
◆ ◆ ◆
買い物袋をぶら下げて戻ってきたカンザキは、自室の前でドアノブに鍵を挿し込むとき、ちらりと彼女の部屋の方を見た。今頃、彼女はどうしているだろう。もう夕飯は食べただろうか。いつか、彼女の手料理を食べてみたい。いや、自分が作ったものを食べてほしい。あの可愛らしい唇が小さく開かれ、「あーん、してほしいな……」なんて言われたら……。考えただけで、ズボンの中が熱を帯びる。膨張したそれは、存在の主張を始める。
(こ、こんな状態をウルシマさんに見られたら、マジで変態だと思われる……!)
カンザキは慌てて鍵を開けると、部屋の中に入った。買ったものを冷蔵庫にしまうと、ごくりと生唾を飲み込んでから、壁にそっと耳をあてた。
『~♪』
壁の向こうから、サナの鼻歌と、水の音……シャワーを浴びているようだ。
(ウルシマさん……なにか良いことがあったのかな……もしかして、俺にさっき会えたから……とか……。……うん、そうだよ。そうに決まってる……)
カンザキは壁に額をつけると、ゆっくりとズボンを下ろした。膨張しきったそれの先端は、すでに濡れている。彼女の柔らかな肌が、細かい泡を纏っているところを想像する。それだけで、さらに熱を帯びてしまったような気がする。身体をよじりながら、声を殺してゆっくりと扱く。
「……あっ、うう……はぁ……サナ、サナ……」
彼女の名前を勝手に呼び捨てにしながら、手を動かし続ける。この薄い壁の向こうで、彼女は何も知らないで、呑気にシャワーを浴びている。そう考えると、僅かな罪悪感が湧いてきたが……カンザキにとっては、それすら快感を高めるためのスパイスでしかなかった。ティッシュを数枚取ると、そこに白濁とした液体を吐き出した。
(……早く、君の中に出したいなぁ……)
◆ ◆ ◆
結局、カンザキはサナがシャワーを浴び終えるまでに、三回も出してしまった。
(マジで彼女がこれを知ったら、終わるよな、俺……)
けれど、知られることはない。おそらく。
心地よい疲労感に包まれながら、まどろんでいると、隣で彼女の小さな悲鳴が聞こえてきた。カンザキは慌てて立ち上がると、サナの部屋の扉をノックした。
「ウ、ウルシマさん……大丈夫ですか?!」
中でバタバタという足音がしたかと思うと、扉が勢いよく開かれた。中から現れたのは、まだ濡れた髪で、バスタオルを一枚身体に巻いただけの彼女で……。カンザキは思わず前かがみになった。
「カンザキさん、で、でたんです!!」
「でたって、何が……?」
「ネズミ! ネズミです!! も、もうヤダ……」
泣きそうな顔の彼女を落ち着かせようと、カンザキは優しく微笑んでから、「良ければ、俺が捕まえますよ。田舎に居たとき、蔵によくでたから、慣れてるし……」と言うと、サナはぎゅっと抱きついてきた。柔らかな胸が自分の身体に押し付けられるようだ。
(や、柔らか……てか、胸以外もこんな柔らかいのか……マジでやばい……直接触ってないのに、で、出ちゃいそう……)
発射寸前のカンザキの理性を取り戻させたのは、サナの「お願いします!」というほとんど絶叫に近い声だった。
「あ……ええ、任せてください」
靴を脱いで、彼女の部屋に上がる。ベッドシーツの色やラグの柄、カーテンレールにかけられた洗濯物を目に焼き付けてから、ドアの外で震え上がっている彼女の方を見て「ネズミ、どのあたりにいました?」と問いかける。
「キッチン……キッチンです!」
部屋の造りは、カンザキの部屋と同じだ。キッチンの方へ行くと、ちょうど流し台で顔を掻いているネズミと目があった。カンザキはじりじりと近づき、素早くネズミの尻尾を掴んだ。その様子を見守っていたサナが「やった」と小さく歓喜の声を上げる。
カンザキはネズミの尾を掴んだまま外に出て、茂みに向かって放り投げた。
「ありがとうございます、カンザキさん!」
彼女が再び抱きついてくる。その瞬間、バスタオルが少しずれて、胸の先端がちらりと見えた。
「あっ!」
サナは恥ずかしそうに身を離して、バスタオルを巻き直す。全身の血が一点に向かって集まっていくのを感じる。カンザキの下腹部は、もう隠しきれないほど膨らんでいた。
「また今度……お礼をさせてください。おやすみなさい、カンザキさん……」
ああ、そんなふうに言われてしまったら、自分は帰るしかないじゃないか。強引なことをして、彼女に嫌われるなんて厭だ。でも、大丈夫。自分は劣情に支配されたりしない。彼女を心から愛しているのだから。
◆ ◆ ◆
「どう思います、伴野さん。彼女、俺に気があると思うんですよね」
業務時間中に同僚のカンザキから、隣に住む女性への想いを聞かされたとき、私は時間が止まったような気さえした。哀れな犯罪者予備軍でしかないこの男に対して、どんな表情を浮かべ、何を言ってやればいいのかわからなかったのだ。
苦笑いを浮かべながら、「気があるかどうかは……わからないんじゃないかなぁ……」としか言えなかった。
「そう……ですか。まあ、時間をかけて、俺のことを知ってもらおうと思うんですよね。あ、俺、会議があるんで失礼します」
やめてやれ。そんなことに時間をかけるな。というか、一生会議から帰って来るな。PCを抱え、バタバタと会議へ向かうカンザキの後ろ姿を睨みながら、内心そんなことを考えていると、別の同僚――コサカが私に小声で「ヤバいでしょ、彼」とニヤニヤしながらそう言った。
「俺も聞いたよ、カンザキの話……気になったからさ、あいつの部屋へ遊びに行ったんだよね」
「はぁ……コサカも性格が悪いね。どうせ、噂の彼女は、さぞあいつのこと、迷惑がってたんでしょ?」
私が呆れたようにそう笑うと、コサカはゆっくりと首を横に振った。
「いいや。カンザキのアパート、あいつ以外、誰も住んでなかったよ」