身寄りのない私は、仕事を見つけるのも一苦労だった。これで断られたのは何件目だろう。
「身寄りのない娘を雇うとね、悪い噂が立つんだ。悪いね」
少し前に噂になった、身寄りのない娘ばかりを雇う変態公爵のせいだ。公爵は、自分の屋敷で娘たちを慰み者にし、飽きたら殺して豚の餌にしていた。公爵は処刑されたが、公爵の事件は貴族たちの恐ろしい所業の氷山の一角に過ぎないと皆考えるようになった。そんな時期に、身寄りのない私を雇ってくれるような場所はない。
私はため息をつき、地図を広げた。ここからいくらか行った場所に、ウィティング伯爵の屋敷があったはずだ。ウィティング伯の屋敷は、森の奥深い場所にある。何かと不便なはずだ。人手はいくらあっても困らないだろう。このあたりではもう、雇ってくれそうな場所はウィティング伯の屋敷しかなかった。
私は徒歩でウィティング伯の屋敷へ向かった。馬車を使ってもよい距離だったが、節約も大事だ。
……。
2時間は歩いただろうか。立派な門扉が見えてきた。その後ろには豪奢な屋敷。
それにしても様子がおかしい。これだけの屋敷で門番が一人もいないとは。実に不気味だが、2時間も歩いたのだ。何もせず帰るわけにはいかない。体全体を使って、なんとか重い門を押し開けた。
屋敷の扉を2、3回ノックする。返事はない。
「あのー、誰かいませんか?」
鍵は開いていた。屋敷の中を進むと、人の声が聞こえた。人の声がする方へ行き、「すみません」と声をかけた。どうやらそこは、食堂らしかった。
食堂に入ると、異様な光景が広がっていた。中央のテーブルに、たくさんの料理が並べられている。しかし、テーブルについているのは黒髪の男ひとりのみ。食堂にはたくさんの人がいたが、黒髪の男以外は立っていた。
「ウィティング伯爵でしょうか。私、サナって言います。ここで雇っていただければ……」
黒髪の男は首を横に振り、「俺は伯爵じゃないよ」と言いながら布で口を拭った。じゃあなんでお前だけ座っているんだ。この状況は何なんだ。
「君も座りなよ」
私は首を横に振った。黒髪の男が眉をひそめる。
「座れ」
「座りません。あなた誰なんですか? ウィティング伯爵じゃないんですよね? なんで、そんなところに座っているんですか」
黒髪の男は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに人を食ったような微笑を浮かべた。「たしかに」と言いながら立ち上がると、どこかへ行ってしまった。
「ウィティング伯爵はどなたですか? 仕事を探しているんです」
「私だよ」
壮年の男性が一歩前に出てきた。
「ちょうど、メイドを探していたんだ。ぜひ、働いてくれ」
私は「ありがとうございます」と頭を下げた。おかしな奴がいて、気味の悪い屋敷だが、仕事にありつけて良かった。
◆ ◆ ◆
それから、黒髪の男を見かけることはほとんどなかった。私は、ウィティング伯爵の病弱な一人娘の世話係となった。ジェスという名の娘で、とても優しい心の持ち主だった。
「サナは、どこから来たの?」
「学がないので地名はわかりませんが、ここからずっと上に行ったところからです」
「北の方から来たのね。寒かった?」
「さあ、どうでしょう。寒いとか暑いとか、よく分かりません。私、鈍いみたいなんです」
ジェスお嬢様は身体が弱く、ベットから起き上がれない。あの時、食堂に唯一居なかった人間だ。しばらく外に出ていないせいか、肌は青白い。美しい人形のような娘だった。
「そう。実は私もね、寒いとか暑いとか、よくわからないの。一緒ね」
そう言ってジェスは微笑んだ。私は「失礼します」と言い、彼女の顔や首を濡らしたタオルで拭った。
「身体なんか、拭かなくていいのよ。私、汚れないもの」
「寝汗は気が付かないうちにかいてしまうものですよ」
「汗はかけないの。食事も睡眠も必要ないのよ」
からかわれているのかと思ったが、ジェスお嬢様は真剣な様子だ。
「私が、とうの昔に死んでいるって言ったらどうする?」
ジェスお嬢様が何を言っているのか理解できず、私は何も答えられなかった。